今考えてみると、「わだあいたい?」をやるには、先生には不安もあったのではないかと思います。
「声を出して喋れない生徒に、わからない振りをする」なんて、“馬鹿にしている” と取られないとも限らないからです。
「わだあいたい」のやりとりが、何とも言えない楽しいものであっただろう…と私が即座に想像できたのは、何よりも私達が先生を信頼していたから。そして、子リスが家に帰るや否や、この出来事を勢い込んで話してくれたからです。「まったく先生ったら…」という雰囲気を示しながら、嬉しそうに報告する子リスの様子から、私は子リスが喜んで先生の冗談を受け入れていたことがわかるのでした。
連絡帳を読んでいくと、「わだあいたい」の他に、こんなのもあります。
もうすぐ生まれて来るちびリスちゃんの名前はもう考えてるの?と先生に聞かれた子リス。おそらく首をかしげて困っていたのではないかと私は想像するのですが、
(先生から)
「妹さんの名前を、「リス子」とか「こり子」などと言って子リス君と話していました。(勿論本当は、本名の一部に「子」を付けたもの)不真面目な命名を私がするので、子リス君は苦笑いしていました」
こうして、今風に言えば時々「いじって」もらうことによって、子リスは先生の愛を感じていたのではないかと思います。
また、先生が、子リスとのそうした空間をクラスの中に作ることによって、子供達は子リスを好意的に受け止め、受け入れて…つまり“かわいがって”くれていたのだろうと思います。
いじることに、愛があるかどうか。
いじられる側に、それが伝わっているかどうか。本当に全く嫌がっていないかどうか。
これは本当に大切なことです。子供の頃、どちらかと言うと“いじられる”側だった私には、数々の思い出があって、それらは「集団の中の自分」というものを見つめるきっかけになったり、反対に、自分の友達に対する態度を見直させてくれたり、または、そのまま古傷となって時々痛んだりしています。本当に、反対側にしかいたことのない人には、おそらく想像のつかない思いが巡っているものだと思います。
そんなあれこれを心に刻みながら、「いじられるけど馬鹿にはされない」、という立場にいられるようになったら、それは、なかなか味わい深いものだと思います。
つまり、ちゃんと心地よく愛されて、周りの人も暖かい気持ちにさせられる、そういう人がそばにいることはとても有難いことだし、もし自分がそうなれたら、とても幸せだなあ…と思うのです。