今になって当時を振り返り、
「学校を休んだのは、“半分仮病”っていうことが多かった」
という子リスに、変な質問だとは思いつつ、「じゃあ、逆にどうして学校には(休み続けず)行き通したんだろう?」と聞いてみると、ちょっと考えて、
「学校は行くところだと思ってたから。」
と答えました。
そして更に、
「アタマ固かったからね。ずっと休んじゃおう、という発想がなかった」と言います。
子リスの場合、喋れないという特殊な苦労はありましたが、それを担任の先生から責められることもなく、クラスにも受け入れてもらい、試練はありながらも「学校は行くところ」の基本を揺るがさずに過ごすことが出来ましたが、これは本当に有難いことでした。
でも、もし先生たちが全く協力的でない、子リスの自尊心が傷つけられる環境しかない、など、子リスにとってあまりに苦痛の多い要素が続いたら、転校を含めた選択肢を模索したと思います。どこまでを「乗り越えさせたい試練」として、どこからを「耐え難いこと」とするか、それを見極めなければ、という気持ちは、いつも私達の頭の中にありました。
子リスは「アタマ固かったからね」と言いますが、
そもそも子供というのは真面目なものだと思います。
子供のアタマは一般的に、大人に比べてずっと柔らかい筈ですが、世の中の善悪、決まり事ということになると、これはしばしば逆転するようです。
子供はとてもルールに敏感な上に、「これぐらいはOK」という、“常識的に許される”程度が判らないので、とにかく一生懸命、“がちがちに” ルールを守ろうとします。(これは成長過程で絶対に必要なことだと思います)。
「学校に行くこと」はその筆頭。
だからこそ、「行かなければ」と思って行く学校は、子供にとって、家と同様に「居場所」であって欲しい。ズル休みをしてしまったり、長く行けなかったとしても、やっと行った時には、あー、来てよかったな、と思える場所であって欲しいと思います。
もし、学校で自分が受け入れられないと子供が感じてしまったら。それはもう、「学校は行くところ」の基本は成り立ちません。残念ながら、子供にそう思わせてしまう対応をしている先生の話を、周りでも何度か耳にし、相談を受けこともありました。
学校は行くところだから、いろいろ大変なことがあってもやっぱり行く。
本来、これで解決するのが望ましいと思います。
時代を問わず、学校には何かしら“嫌なこと”というのはあって、出来れば学校を休みたいと思っている子供は、緘黙症などの問題の有無に拘らず沢山いる筈です。でも、やっぱり学校は「行くべきところ」だから行っている。嫌でも行けば何とかなる。そして卒業して、学校時代はあんな苦労があったなあ、と懐かしく語る。…そんな風に小学校時代を過ごすことが出来れば“御の字”なのだと、休みたい派だった私などは思います。
でも、「行けば何とかなる」とは言い切れないケースがあるのも事実です。
時々耳にする、先生や学校の信じられない対応、そして、第一の居場所であるべき家庭での虐待、それらは間違いなく子供にとっての「当たり前」を揺るがすものです。