「要するに、喋り方も知らないくせに、変な話し方をしちゃってたんだよね。
クラスの中で目立ってる人って、ちょっと皮肉っぽいこととか、人を馬鹿にするような言い方とか、したりするでしょ。それは、そいつが言うからサマになるわけなんだけど、同じことを自分が言ったら変なんだよね。でも、そのどこかで聞いたような喋り方を真似して、言ってみてた。全然似合わない喋り方だから、嫌な感じになっちゃうし、周りは変な空気になる。
喋ることの初心者なら初心者らしくしてればよかったのに、なんか変な方向へ行っちゃってた。
喋れない自分→自分らしさはそのまま+喋れるようになった
ってなればよかったんだけど、
喋れない自分→ちょっと粋がった喋り方を身につけて+自分らしさはなくしちゃった
となった訳だから、嫌な奴だよね。いじめたくもなるよ。」
……。
やはり、(6年生時代 その⑦ ゲームコーナー)の頃に私の中に芽生えていた懸念、つまり、「4年生まで学校で喋ることなく過ごして来た子リスが、声が出るようになったからと言ってすぐ、迷うことなく、上手に、友達と話せるものなんだろうか?」という不安は、現実のものとしてあったのです。
考えてみれば当たり前なのかもしれません。同世代の子供と、殆んど喋ったことがない状態で高学年になり、何となくみんなが少し大人びた話し方をするようになった時に、いきなり輪の中に入って話をするというのは、相当なビッグステップだったに違いありません。
本人は今客観的に当時を振り返って話してくれていますが、私にとっては、胸の詰まる話でした。
そしてもうひとつ、
「今だったらもっと上手に説明ができたんだろうけど、あの頃は説明が下手だった。
あの中で、実際には殆んど何もしてなくて、ただ“その場にいただけ”だった友達もいたんだけど、その辺をちゃんと言えてなかった。悪かったと思ってる。」
と子リスは言いました。
そうだね、それはそう思うよね。直接何かしたわけではない子達に対して悪かったと思う気持ちはわかる。お母さんが同じ立場だったら、後から同じように罪悪感を持つと思うよ。
でも同時に、あの時に”不運にも”あのグループにいて、いじめに加担した形になってしまった子達にとっても、学校で先生やお父さんに諭された経験は、必要なことだったんじゃないかとは思うよ。
どんな理由があっても、人をいじめちゃいけない。実際に手を下さなくても、その仲間で居続けてはいけない、って言うことは学んだでしょう。
それから、子リスは、「自分が“嫌なカンジ”になっちゃったから、みんながいじめたくなったんだ」って言うけれど、それはそれ、これはこれだよ。
“嫌なカンジ”は、人に嫌な思いをさせるわけだから、直さなくちゃいけないことだし、“お前、何だよだよその言い方”“腹立つからやめろ”ってケンカになるならなったらいい。でも、怪我をさせておいて誰がやったかわからないようにするとか、閉じ込めるとか、そんなやり方していいわけない。
子リスも、
「気に入らないからいじめた、ってことは正当化しちゃいけないと思うし、どんな理由があっても、いじめはダメだと思ってる。だからあの時、お父さんが学校に行ってくれてよかった。
ただ、もともと自分にも悪い所があるって何となくわかってたのに、それを言わなかったのはよくなかったよ。」
そっか…。
この件に関して私と子リスは、幾度にも渡って話をしました。過去のことではあっても、解決しきれていないものがあったのだと思います。当時見えていたものよりも深いところに、複雑で繊細な問題があることを知って、私は、頭も心もフル回転させながら、いろいろなことを考えました。次回、それについて少し書こうと思います。