3年生時代 その③ 先生とのコミュニケーション

 緘黙症に限らず、学校での子どもの問題に取り組む上で、親と先生がしっかり連携を取ることが不可欠であるのは言うまでもありません。ただこちらも人間、あちらも人間、考え方の違いもあれば、単純に相性の良し悪しもあり、いつでもすんなりうまく行くとは限りません。
 子リスの担任の先生に関しては幸い、「ダメだ、この先生とは話にならない!」などと感じたことはなく、それは本当に感謝すべきことだと思っています。でも勿論、先生達が全員同じタイプの先生だったわけでもなく、緘黙症のエキスパートだったわけでもありません。緘黙症というものをそもそもどう捉えているか、どれだけ理解しているか、そしてどのように取り組もうとしているか、といった点においては先生によって様々でした。また、先生と私達親の考えが、いつでも100パーセント一致していた、というわけでもありません。そんな中で、何とか同じ方向を向いてやっていくために必要だったことが、いくつかありました。例えば…

(1)自分の中で、「絶対にこれだけはライン」というものを持っておく。

学年初めの面談でお願いしたこと(3年生時代その①より)の中で特に根幹に関わるのは、
  ① 本人には、「場面緘黙症」という言葉を使わない(本人には知らせない)のは勿論、
     「喋れるかな?」などと、本人が意識するようなことを言わない。
  ② クラスで全員が一人ずつ発表するような時は、順番を飛ばしたりせず、紙や黒板
     に書くなど、何らかの方法で発表させてもらう。
  ③ なるべく話しかけたり質問をしたりしてもらう。質問に対して声を出して答えられな
     かった時には、声を出すことを無理強いしない。

 の3点でした。これらは、いつでも一番大事なこととして、自分の意識の中ににあったように思います。これが、学校生活に求める「絶対にこれだけはライン」です。

 そして、そこが守られる以上は、それ以外のことに関してあまり要求を増やさないようにしようと決めてもいました。
 誤解の無いように書きますが、決して、学校の先生には多くを期待してはいけない、または期待できない、という意味ではありません。上に挙げた3つは、子リスの為に本当に必要なことだった(と思った)ので、先生に対しても自分の中でも、そこだけは…と際立たせることで、必ず守られるようにしたかったのです。先生と私達が同じ方向を向いて進んで行く為に、シンプルで具体的な取り決めのようなものがあることは役に立ったと思います。

(2)自信と謙虚さと

 先生と、「そもそも緘黙症とは」という基本的な話をする時、こちらにある程度しっかりした知識があることは、先生にとって大きな安心になる筈です。それと同時に、先生は学校教育の専門家であるという事実に敬意を払う姿勢を忘れずにいることで、お互いを認めつつ進んでいく道が開けてくるのではないかと思います。

 年度初めの面談では、
「私自身、緘黙症という言葉を聞いたことすらなかった、つまり知識ゼロの状態から始まり、何とか必死で調べたり相談に行ったりして、これこれのことがわかりました。また、親として子リスをを見ていて、大事だと感じているのはこれこれです。また、これこれはどうも逆効果のような気がします。だから、学校ではこれとこれをお願いしたいと思っています。また、学校での様子を是非知らせてください。」
…というような感じで、一生懸命話した記憶があります。

 自分なりに得た知識と、それから、日々我が子を見ていてわかること、感じることは自信を持ってしっかり伝えること。それを、教育者である先生に、上からでも下からでもないところから真っ直ぐに伝えることで、その先生の、緘黙症に関するもともとの知識の深浅に関わらず、そこからより理解していこうという気持ちになってもらえるように思います。先生が完全に主導権を握るのでも、完全に寄りかかるのでもない、健全な、延いては“やり易い”バランスが生まれるような気がします。

(3)“お任せ”

 これは、最初の段階で、またはある程度経過を見た後に、基本的に先生を信頼できると感じられた上でのことですが…
方針に関わる部分でのお願いをした後は、「学校にいる時間は全て先生にお任せします」とはっきり伝えることも大事だと感じました。
子リスについて、親の私にしか分からない様なことも勿論たくさんありましたが、学校生活となると、そこは私は見ることの出来ない世界です。その中で子リスがどんな様子を見せているのか、一つ一つのことにどんな反応をしているのかは、私の想像の域を超えず、もしかしたら私には見せたことのない顔もあるかもしれません。だとしたら、いろいろな場面で“こんな働きかけがいいかもしれない”と先生が感じた時には、是非やってみてほしい、と思いました。ひょっとしたらそれがチャンスになるかもしれない。もしかしたら「私の知らない子リス」「子リス自身も知らなかった子リス」が出現するかもしれないのです。だから、(あくまでも基本の合意事項は守ってもらうという前提で)“先生を信頼しているので、どうぞ思う存分にやって下さい”と伝えることで、先生には良い意味での気楽さと、取り組む意欲を持ってもらえるのではないか、という期待を込めたものでした。
 いつも監視していますよ、という態度で相対するより、先生はやり易いだけでなく、私達に寄り添ってくれる筈だと思ったのです。

(4)先生の個性を楽しむ

 「お任せ」しながら、先生がどういうタイプの人であるかということを知り、出来るだけそのまま受け入れることにすると、一抹の不安は感じながらも、どこか気が楽になる部分がありました。
子リスが外界(まさに、家以外の場所は“外界”でした!)から受ける刺激を、私達がある程度は取捨選択できたとしても、その選び取ったものが全て良いとも、また排除したものがすべて悪いとも言い切れません。そういう「コントロール」の範囲を越えたところで子リスはいろいろな場面に遭遇し、嬉しい思いも悲しい思いも経験していきます。
 いろいろな友達がいて、子リスにいろいろなことを言うように、いろいろな先生がいて、いろいろなアプローチをしてくれる、これは、いつか自分でいろいろなことを乗り越えていくようになるにちがいない子リスにとって、有難いことに他ならないと、子リスが3年生のこの年、初めて思いました。それは、年度初めの面談で担任のN先生が、驚くほどあっけらかんとおっしゃった、「大丈夫です!」がきっかけでした。

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